『県女・有朋高校から皆実高校へ 高校再編制』

戦後の教育改革

昭和22年、教育基本法、学校教育法が制定。教育の機会均等、男女共学、6・3・3・4制、義務教育9年制となり新制中学校が発足。
昭和23年、単科制・男女別学制・無学区制が廃止。総合制・男女共学制・小学区制(高校三原則)新制高校が発足。広島県は旧制度のまま校名の変更のみ。新制度は昭和24年から実施。有朋高校、広島県広南高校、広島県広島工業高校、広島県広島工業高校、広島市工業高校の4校が母体となり、該当学区(下述)に居住する各公立校の生徒が編入して総合制皆実高校が設立。昭和26年、職業科に難題が多発。総合制は次第に解体。昭和28年、皆実高校も工業部が分離し単科制となった。

高校三原則(総合制・男女共学制・小学区制)について

高校三原則は全ての国民に均等に教育の機会を与える民主主義的・個人主義的教育理念を具現するための制度。

1)総合制
戦前の中等教育は分岐型学校体系で、旧制中学校は旧制高校・大学へ連なるエリートの養成を、高等女学校は良妻賢母主義の女子高等普通教育を、実業学校は工業・商業など実業分野で働く人材養成を目的としたが、総合制は単線型学校体系で、公立学校を統廃合・再編成し同一学校内に普通科と職業科を置き、全ての学生に広く学習の機会を与え、どの学校で学んでも高等教育機関への進学機会を齎すことを目的とした制度。
2)男女共学制
男女の相互理解を深め、男女共に均等に学習の機会を与える制度。
3)小学区制
保護者が居住する小学区の公立高校に進学することにより通学の利便性を高め、高校進学の機会を拡充させることを目的とした制度。

高校三原則の実施内容は都道府県により差が大。総合制では、実施校の割合は、広島100%、東京3%、秋田0%。男女共学制では広島100%、宮城30%。これは占領軍地方軍政部の勧告・指導程度の差によった。

広島県広島皆実高校の小学区

学区は普通部(普通科・生活科)では広島市(千田・皆実・大河・楠那・比治山・段原・仁保各小学校区)、安芸郡(江田島のうち切串・大須・津久茂)、安芸郡(口田・落合・深川・狩小川)、佐伯郡(三高)、工業部では機械科・電気科は広島市・安佐郡などの郡部、建築科・土木科・工業化学科・造船科は全県一円であった。有朋高校2年生、1年生、附設中学3年生の生徒はそれぞれの所属学区の学校に編入・進学した。

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学校名の変遷と卒業証書

有朋43期生

昭和23年3月、第一県女を5年で卒業(有朋43期生)した最後の生徒267名のうち、104名は新制の有朋高校3年生に移行し、昭和24年3月有朋高校を卒業。

県女卒業証書(湊様)有朋高校卒業証書(湊様2)
2012-023-Y43湊妙子資料

有朋44期生

県女卒業証書(脇坂様)


昭和23年新制の有朋高校2年生に移行。昭和24年3月、有朋高校2年修了の278名に、学校側の配慮で最後の第一県女卒業証書が授与された。昭和24年4月から居住地の小学区にある公立高校の3年生に編入。再編成の高校1期生として25年3月卒業。

2012- Y44脇坂登久子資料

有朋45期生

昭和22年第一県女附設中学3年生となり、翌昭和23年3月卒業。同年4月には有朋高校1年生となり、昭和24年3月188名が有朋高校1年を修了し、居住地の小学区にある高校の2年生となる。再編成の高校2期生として、昭和26年3月卒業。

三上 皆実高校卒業証書
2012-011-Y45三上和枝資料

有朋46期生

五十嵐卒業証書


昭和21年第一県女最後の入学生。昭和22年4月第一県女附設中学2年、昭和23年4月有朋高校併設中学3年生。325名が昭和24年3月併設中学第2回卒業生となった。昭和24年4月各々の居住地の小学区にある公立高校に編入。再編成の高校の1年生となり、昭和27年3月卒業。

2012-005-Y46五十嵐三津恵資料

『学校新聞で見る高校再編成の時代』

(1)第一県女新聞 創刊号 (昭和21年8月6日発行)

原爆投下から1年後の昭和21年8月6日、全国に先駆けて雑誌部委員により創刊された。新制有朋高校に移行する直前の昭和23年3月までに14号を発行し、有朋高校新聞に引き継がれた。

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創刊号 第一面全体写真

14号までの主な記事
新しい時代に

巻頭言     土橋幸之助校長   創刊号(昭和21年8月6日)
新の自由を把握せよ(浜井市長を訪う)第10号(昭和22年11月)
巣立ち雑感   生徒論説      第14号 (昭和23年3月)

旧制の女学校から新制の高等学校へ

新学制実施にさいして 土橋幸之助校長 第6号(昭和22年4月)
発揮せよ有終の美           第13号(昭和23年2月)

復興へ

私たちの学苑  雑誌部5年委員  創刊号 (昭和21年8月)
第1回復興祭           第4号 (昭和22年2月)
新校舎にうつりて         第7号 (昭和22年7月)
卒業生を送る  土橋幸之助校長  第5号 (昭和22年3月)
回想断片    坪井守麿教諭   第14号 (昭和23年3月)

学校のようす

学苑日誌抄            創刊号 (昭和21年8月)
友へ      1年 多田雅子  創刊号 (昭和21年8月)
現代かなづかい 研井知陽教諭   第4号(昭和22年2月)
4、5年読書調査         第9号 (昭和22年10月)
スポーツ県女           第10号(昭和22年11月)
スピーカー            第10号(昭和22年11月)
「かまぼこ」さん達も大乗気    第12号(昭和23年1月)
先生と生徒の混声合唱       第13号(昭和23年2月)
生徒通学調査 どしどし広島に復帰 第13号(昭和23年2月)

ピックアップ

第一県女新聞

○私達の学苑  五年雑誌部委員      復興へ        1号
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焼跡にも緑が萌え遂に又思い出の八月が廻って来た。この一年何と言う変転の月日であったろうか。しかし今我が第一県女は着実に新生の第一歩を踏み出した。昔なつかしい下中町の校舎は幾多の先生方お友達と共に悲しい思ひ出を秘めて無残にも灰燼に帰してしまったが早くも五万坪の広大な土地を有する陸軍被服廠跡を私達の第二の学校として勉学に運動にいそしんでいる。

学校が落ち着くと共に精神的にもそれぞれ拠り所を得て子弟一如一途に高いものを求めて進んでいる。軍国主義的図書を一掃した図書室も設けられ生徒の世論を率直に語る「声」といふ投書箱も出来各級毎の常会も開かれて生徒の決議事項は直ちに実行に移される。校友会各部も復活され部員一同張り切っている。殊に雑誌部ではこの様に素晴らしい新聞が発行されることになった。放課後肥料をお担ぎになる先生方鍬を振るう生徒,夏の青空に軽やかに打ち上げられるバレーのボールに乙女等の希望が踊る。走る人跳ぶ人陸上競技部の人の健康そのものの様な血色,引揚同胞援護会事業に自発的に進出して行く五年有志の意気。私達の生活がかくも明るく健やかなのは皆の復興の熱と若さと力とによる敗戦による生活苦と食糧難,交通難,道義の頽廃,学用品もなし,家庭事情も悪い環境下にあって私達の一日を勉学に専念するは至難事である。しかし私達は是等幾多の難関を乗切って向上の一途を辿っている。第一県女が完全に民主化されたとは未だ云えないかも知れないがそう呼ばれる日も遠くないであろう

○第一回復興祭開催            復興へ         4号

梅花かおる如月の九、十、十一の三日間生徒の自発的な声のもとに生徒代議員会議で決定した本校第一回復興祭が先生方の御指導を仰いで開かれることとなった。学芸会、バザー、喫茶等が開設され各部主任の先生を中心として私達は有意義な復興祭にしようと一生懸命である。一切を生徒の手でと五年生は大活躍をしている。学芸会では、学校劇、和洋舞踊、音楽等と何れも驚嘆の眼をみはらしめるものばかり。中でも洗練された舞踊、劇は玄人も及ばぬ所があろう。
バザーに於いては名士の作品の頒布、生徒の心からの家庭必需品の製作物委託品等何れも実費をもって販売する。又喫茶部に於いては物資不足の折からも種々の材料が集められ、甘党の店も開かれる。この催しは生徒自身の自発的な活動によるものでその純益をもって学苑復興費の一部にあてたいと考えている。自由の学苑、民主県女の建設に我々は盛り上がる若き力を捧げて努力しているのである。
尚この復興祭の歌募集の結果、二年生の福井富美子さんの作入選直ちに岡本先生に作曲して戴いて復興祭当日にはその発表会も併せて行う。歌詞及び学芸会のプログラムは次の通りである。

“復興祭の歌”

一、焦土と化しし学舎に
佇てば坐ろに涌く涙  たてばそぞろに
亡き師の霊に額づきて   ぬかづきて
我が学苑の再興を
固く誓ひて決然と
奮ひ起ちたる鳴呼我等
二、民主県女の旗幟高く    きし高く
明日の希望に燃え立ちて
苦難の道を切り開き
我が学苑の復興を
我等乙女の盛り上る
力捧げてなし遂げむ
三、行手に風はすさぶとも
荊棘は如何にしげくとも   いばら
学びの道を一筋に
共に進まん手を取りて
平和日本の建設に
文化日本の建設に
○論説 巣立ち雑感            新しい時代に      14号

巣立ちという事はうれしい事に違いない。卒業する者自身にとっては勿論、その親にとっても又その師にとってもうれしい事であるのが当然である。
私達は今目前に第二の巣立ちをひかえている。だがうれしいと思う半面により強く心残りなさびしさを感じるのは私だけであろうか。
平和な時代の女学生の感傷とはまるで違う。さびしさというよりは、さびしい不安という方が適切かもしれない・・・そんな気持ちを強く強く感じるのである。今から考えると無理だったあの戦争に勝利の日を期しつつ学業を捨てて生産に従事した動員時代の学力を遂にとりもどす事が出来ないで世間の人からも又先生方からも、卒業程度の学力がない事を黙認されたまま巣立つのはさびしい。学園の外が日一日と変貌しつづけるめまぐるしい過渡期の社会である事もさびしい。だが前途の保証されない日本である事が何よりも心細いのである。
将来の我が国の歴史を如何に書き込むかは、私達の盛り上がる熱情と困難をのりこえて理想を実現すべく努力する意志ある行動の如何であろう。歴史を書き込む者――その偉大なる責務を負うものは、私達より外の何者でもないのである。
私達は子孫が幸福になる様な歴史を綴らねばならない。そう思うとき、この光栄ある仕事は、実に重く、そして限りない苦しみの仕事であることを痛感する。私はそんな苦しい事は嫌だといってもこの責務から逃れる事は凡そ出来まい。みんながそんな重荷は誰かがかついでくれるだろう。・・・私は苦しむのは嫌だと見てみぬふりをしていたなら、私達はとりも直さず日本滅亡の歴史か、或は又子孫が隷属化する様な歴史を書き込む事に外ならないからである。どうせ逃れられない責任ならかがやかしい歴史の一頁を記して、この大いなる務をよろこびを以て完遂しようではないか。
現在の深刻な生活はややもすれば私達を現実の生活に妥協させ勝ちである。でも理想を追求するところにこそ進歩があって現実への妥協には堕落しかない事を知るならば、私達は空虚な惰性の生活を送る事は出来ない。何の目的もなく唯時間にひきずられての生活――それは生存でしかない。
やがて私達の第二の母校となる第一県女。その復興の一端を私達の手で受け持った事を思うとたまらない愉しさが湧き上がってくる。
炎天下の机運びはつらかった。倉庫の教室の冬の授業は寒かった。でもかって苦しかった事が今思うとみな愉しい思い出である。そしてきびしい授業をなさった先生程なつかしく思われる。何時だったか教会で神父様から、苦しみのキリストに近づけば近づく程、光栄のキリストにも近づく事が出来るという御話を聞いた事をふっと思い出す。
卒業の時期が四月なのはうれしい。何となく目にうつるものすべてに希望がもてそうな気がするからである。大きな希望に胸をふくらませて巣立ちのスタートを切ろう。だが春の快さに押流されてしまうまい。私達には将来の日本の歴史を決定する重且大なる責務がある。
翼が疲れたなら母の巣へ舞いもどろう。そして慰め力づけられたら、又元気溌剌と飛び立とう。私達の母の巣がよりすぐれた巣であった事を今更の様に感謝しつつ、なほ残って学問に励み教養をつまれる方らに、本校をこれからますます進歩発展させるべく努力されん事を心からお願いする。    (三吉)

『学校新聞で見る高校再編成の時代』

(2)廣島有朋高校新聞 第15号 (昭和23年5月31日発行)

第一県女新聞を引き継ぎ第15号からが有朋高校新聞となる。高校再編成で有朋高校としての歴史は1年間で閉じられたが、その1年間に20号までが発行された。

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第15号 第一面全体写真

19号までの主な記事
新制高校

個性を伸ばす・・・・グループ制度       第15号(23年5月)
定期試験廃止さる             第16号(23年6月)
五日制実施さる 要はわれわれの自覚如何  第19号(23年12月)
生徒最初の視察旅行に・・・先生と共に・・・   第17号(23年8月)

学校のようす

開校記念に献本運動            第15号(23年5月)
校内合唱コンクール            第19号(23年12月)
解放された映画とリボン          第16号(23年6月)
軽やかな制服決定             第16号(23年6月)
男女共学                 第16号(23年6月)

ピックアップ

有朋高校新聞

○定期試験廃止さる                       16号

今までいろいろと問題になっていた定期試験が去る6月16日の職員会で諮られた結果、旧来の定期試験は廃止ということに決定したが、その代わりとして隋時に先生方独自の方法でテストが行われることになった これにより今までの学生の苦労の種であった定期試験が本校では廃止されることとなった、これによる意見を各方面から拾って見よう

本校先生方の意見
H・試験をなくすると云うことは賛成であるが生徒が勉強するかしないかと云うことが問題で現在の状況では学力が低下するのではないかと思う、故に不賛成である
I・当分の間はレベルが下がるかも分かりませんが追々よい結果となることと思います。何にせよ過渡期には犠牲者がでることはいなめない
T・私の理想としては試験制度全廃を主張する。この理由は今まで日本の学校が全面的に通知簿を使用していたので今実現は難しいが個人により頭脳が違うのでいわゆる暗記力の良い人はあまり努力せずに好成績を取り暗記力の悪い人は全努力を集中しても悪い成績しか取れないのでクラスを標準として成績を決めることは人間性と云う点からもいけない。テストによって個人の本当の力を個人中心に見たい。

生徒の意見
定期考査がなくなったということは私達にとっては嬉しいことですがこの結果の良い悪いは私達生徒のそのことに対する理解によると思います。

個性を伸ばす・・・・・・

○個性を伸ばす・・・・グループ制度                 15号

希望に燃えつつ新制高校は発足し本校は他校に見られぬ独自なるグループ制度によって校内の行動が行われる様になった。
グループ制度の編成は先にも述べてある様に生徒の意思による先生の選択であり、これによってかもしだされる雰囲気は実に和やかな親しみのあるものである。
グループ数は3年5グループ、2年11グループ、1年9グループで人数は1グループ20人乃至25人でこれが普通の今までのクラスと云う様なもので授業の時のみ文科、理科、家庭科にそれぞれ別れて授業を受けるのであってグループ中に文科の人、理科、家庭科の人も皆いっしょである。
グループは朝礼で一緒になり昼食時に集まってその日の色々な話題に花を咲かせ、週2回はグループ主任との会食もありまた時にはグループ遠足やそして楽しい愉快な一夜の合宿も校内において行われる

○五日制実施さる  要はわれわれの自覚如何    19号
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長期間にわたり色々問題になっていた1週五日制も11月29日よりいよいよ実施された。五日制とは、一週間五日、すなわち三十時間の単元を行い、土曜日を自由研究日としたものである。
五日制の目的は(1)研究発表会、音楽会、講演会その他色々の行事を土曜日に行って、1週三十時間の単元を充実したものにするため。(2)個人の学科研究を行うため。(3)クラブの活動をますます活発にするため。の三項目にわたっている。(後略)


廣島皆実高校新聞29号(昭和28年3月発行)

総合制皆実高校でいち早く活動を開始したのは新聞クラブで、皆実高校新聞の創刊は昭和24年6月13日であった。昭和25年2月12日第2回広島県高校新聞コンクールで1位となり、以後8年連続優勝を飾った。この29号の発刊は、総合制から単科制に移行する直前の3月発行されたもの。 (アーカイブズ委員会は、総合制皆実高校初期の歴史を語る重要な資料として、皆実高校新聞創刊号から18号を探しています。)

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第29号 第一面写真

回想  皆実高校新聞の初代編集長・太鼓矢晋  (『七十周年記念誌』より)

5月9日、宮川造六校長をむかえ、先生方もそろって、開校式。6月13日に、僕らは「廣島皆実高校新聞」の創刊をみた。第一面のトップは、「希望の一燈目指して進む男女二千の若人」とある。また、「普通、家庭、工業科あわせて生徒1890名、教員120名は中国一を誇るとうたったが、所帯はあまりに大きすぎた。それで間もなく分裂することになるが、生徒の僕らも自治会やクラブの運営で困った。しかし何事も一緒にと言う目標で努力し、頑張ったと思う」とある。

第29号の記事から
単科制決まる

単科動向の実現 今春四月から発足か 代議員会ひらく 単科制の実施で各クラブは大童

六日制

六日制も既に内定 六日制になるとはほんと?

時代を感じる?

女生徒→男生徒 一言物申す
旭町校舎・千田校舎・・・・総合制の皆実高校は全校生徒1890名のマンモス校で、校地も旭町(普通科・生活科)と千田校舎(工業科)に別れたままであった。また、大きな行事は旭町校舎と千田校舎別々に行われる事も多かった。この年の修学旅行と駅伝もそうであった。
修学旅行最終案きまる アメダマに喉をうるおす 盛会だった校内駅伝 生徒が選んだ昭和27年の五大ニュース  三段峡遭難事故もその一つ。

ピックアップ

皆実高校新聞 第29号

○女生徒 男生徒  一言物申す
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【女生徒】
「女の髪は長いが知恵は短い」,「女が黙している時は知らない事の時ばかり」等々私達には大変有難くない格言が存在致していますがいづれにしてもこれは男性側の見地でありましょう。〝もの申される〟方で〝一言物申す〟等と云える柄ではありませんが,許されるならば〝賢明なる男生徒よ,虚面言を捨て名義を捨て,真実一路貫かれよ〟と望む次第です。女の愚かさは百も承知して居りますが,使い用では学園建設の途に女でなければ出来ない歩みを加える事も出来ましょう。それにしても思慮の伺われない言動はつつしんでいただきたい,云うなれば素直になっていただきたいと云う事です。体裁を気にして照れ臭がったり,外見的な美に惑わされたり,騎士的精神をはき違えたり,気にいらない一つ一つです。〝おつり〟の額は覚悟しています。

【男生徒】
終戦後学校制度に男女共学が実施され,女性の向上の道が大きく開かれたわけであるが,その制度は女性にはあまり利用されなかった様だ。何と言っていいか女性の本来?の気質からか積極性にかけた人の多いのは残念だと思う。自分の信ずる所を堂々と発表し他人の批判をあびるだけの勇気を持ってほしいと思う。それでいて井戸ばたでの不平不満は驚くほど多い。私はそれに対してとやかく云おうというのではないが,女性向上の道と言うものは決してこんな態度では歩めないということである。要するに女性は良い意味でもっと活発であってほしい。そして悪い意味では現代の女性,特に完成途上にある女性はもっと消極的であってほしい。女らしい女性としての態度を良くみきわめ,男に対して良く理解を深める様,と共に一言もの申した次第である。

○六日制も既に内定
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県教育委員会では、前記単科制高等学校の発足と共に各公立高校の六日制授業の実施をも決定した模様であるが、現在の五日制は昭和24年に総合制が編成された当時に毎週の土曜日を生徒個人の家庭自習と、社会科面の研究日に当てるとの意図から生まれたものである。しかし現在に至ってこの五日制が再検討され、六日制の問題が持ち上がって来たのは五日制に於ける土曜日の利用が当初の目的を十分に達成し得なかったというところに原因していると思われる。この活用が十分に行われるとすれば確かに理想として意義があると思われるが県教委の調査の結果が六日制に逆もどりの傾向を示しており、隣県の実情を見ても六日制は相当の効果をあげている。これに習って本県でも今春四月からの六日制が内定されたわけで、これによる教育体制の強化と向上が期待されると共に、それが生徒に与える影響には大なるものがあると思われる。

○アメダマに喉をうるおす;盛会だった校内駅伝
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恒例の旭町校舎マラソン大会は、1月24日、男子は知事校舎前を出発し黄金山を一周する延べ1万3千米、女子は遅れて延べ8千3百米のコースで行われた。
この日、朝からの悪天候に挙行が危ぶまれていたが、出発予定時刻には、雲も切れ晴れ間が表れる絶好のマラソン日和となり、コースは軟弱ではあったが熱の入ったレースを展開した結果、昨年の優勝者真田君(土3)が42分24秒で堂々2連勝を遂げた。
2位二村(造2)、3位二村(普1)、4位宗川(造2)、5位久保(普1)がそれぞれ入賞した。又女子の方では昨年の優勝者松尾さん(普2)が1位、2位は岩田(普2)、3位東(普1)、4位岸本(家2)、5位馬谷(普1)であった。
一方千田校舎では去る2月16日己斐―宮島往復12区間のコースで第3回駅伝大会が行われ、全クラス選抜21チームの間で最後まで接戦を続けた結果、第1位 M3B、第2位 A2,第3位 E3C,第4位・・・・なお区間賞は1区井関(M2B)、2区岩本(M3C),3区古本(M2B)

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皆実高校生徒諸君

第4代木村二郎校長は在任の7年間に52回、生徒ひとり一人に行き渡るよう「皆実高校生徒諸君」と題するパンフレットを刊行した。当時を知る卒業生により、今も懐かしく語り継がれている。皆実有朋会は、1963(昭和38)年木村次郎校長の退任した年に、在任中のパンフレット集を一冊の本にして刊行した。

□ 見開き生徒諸君
生徒諸君見開き

□ 生徒諸君の表紙
生徒諸君表紙

□ 緑冊子の表紙
緑冊子の表紙