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記録・エピソード

戦時下の女学生

1.菜園の収穫

1月13日(水) 4校時作業。農園に行って収穫の白菜を5つずつもらった。明日は被服廠へ軍役奉仕作業だ。8時20分までに正門前へ集合。
1月20日(水) 4校時の作業の時には農園に行って、野菜を手に持てるだけ持って帰った。池田先生が持てるだけと言うことを「持たれし」と言われたので皆大笑いした。

昭和18年有朋40期生の日記

2.モンペは好き?

昭和18年頃は、モンペはウールの入った父親のセルの着物をほどいて作り、冬は暖かだった。決まった型紙はなく、恰好がよいのを穿いている人から借りて縫った。モンペ通学は「毎晩の襞スカートの寝押しから解放される」と喜んだ生徒もいて、先生に叱られたとか。

有朋40期生インタビュー

3.兵器廠で勤労奉仕

8時20分集合。馬具の手入れ(鞍磨き)をしていたら洗濯に回された。ここの石鹸はとても強いので、手の皮が水膨れになった。前掛けや手袋のすごく汚いのを大分洗った。今日の1日はとても長かった。気持ちが緩んでいたのだと思う。「出家とその弟子」を読みかけて、すぐ寝た。明日も兵器廠。

昭和18年 有朋40期生の日記

4.学校警備の防空宿直

夜7時頃家を出て学校まで45分。同じ方角から通う生徒10名位が1班に編成されていた。男先生と女先生が各1名。真っ暗な廊下を作法室に向かう。懐中電灯の光が長い廊下に揺れ、壁や天井を這う。バケツ、砂袋、火たたき、水槽は満水か、点検しながら校内を一巡する。仮眠をとり、朝5時に学校を出て帰宅。朝食を済ませ7時前に再び学校へ向かう。

有朋40期生

5.女学生の服装

母親や祖母の黒っぽい木綿の和服をほどいて縫ったモンペを穿き、肩掛け鞄と防空頭巾の携帯が決められていた。すべて学校で型紙をとり、自分で縫った。黒っぽい木綿で、ふた(フラップ)付きのちょっと可愛い鞄には緊急時のための焼き米と、メンソレータム、三角巾、包帯などを入れていた。防空頭巾には薄い綿が入り、空襲の時に火焔や落下物から身を守るためのものだった。

有朋44期生

6.空襲に備えての実地訓練

空襲にあったらどのように身を守るか、何度も校庭で一斉に練習した。爆風をやり過ごす方法は、親指で耳を塞ぎ残りの指で眼をおさえ、直ちに地面にひれ伏す。ついには顔と耳を覆う前にまず大地に顔を付けるまでひれ伏すこと、身をできるだけ低くかがめる動作が反射的にできるよう特訓。

有朋44期生

7.野戦蚊帳の作り方

台形の布を4枚輪になるよう縫い合わせる。それに長四角の天井布を継ぎ合わせると、跳び箱の形になる。継ぎ合わせには布を巻き、丈夫にして天井の四隅に三角のちから力ぬの布を縫いつける。それに綿テープの吊り輪をしっかり止め付けた。跳び箱の裾には国防色の並幅の綿布をぐるりと縫い付ける。軽い麻布が風に煽られ、蚊の入るのを防ぐためだろう。

有朋40

8.大八車で川内村へ疎開

3月、私は前屈みに大八車を曳いていた。後押しが2人、それに荷崩れを見張りながら両脇に1人ずつと、引率の先生が1人。学校の裏門を出て電車通りを越え北に進んでいった。学校から北北西に約12キロの道程であった。ミシンは陸軍被服廠のトラックで運ばれたが、細々した物は大八車で何往復もして運んだ。太田川に沿って上流へ、上流へと進む。(中略)公会堂は杉の横羽目に囲われた木造平屋であった。

有朋40

9.特攻隊員の鉢巻(昭和20年)

幅2mくらいの裁断台は、つなぐと床の端から端まで伸びた。1人がその台に上がり、反物を後ろ手に背負って四往復、まっすぐ走る。汗がしたたり落ちた。反物の回転を助ける者、台の両端で布を押さえる者。8枚重ねの長い布を皺の無いよう、曲がらぬように拡げる。そして、幅35cm,長さ90cmのしるしを付け、へらで線を引く。8枚重ねのまま、裁ち鋏で切るのはなかなか難しい。兵士の死装束を作るために、私たちは全精神を集中した。

有朋40

10.建物疎開作業の片づけ

5月17日から4日間、疎開作業後の空き地や道路などの整理を行った。道がきれいにな
ったのを見まわすと楽しい気分になった。6月には避難道路の清掃作業を行った。もっこをかついで土地の低いところに砂を運んだ。肩が痛かったが我慢して最後まで運んだ。お腹がすくのでお昼が待ち遠しかった。

昭和20年1年生(有朋45期)の日記

11. 動員学徒への配慮

厳しい状況の中でも、広島印刷では毎週音楽の時間があった。女学院から音楽の升田先生が巡回して来られ、「ともしび」などを歌ったり横笛の練習をした。当時貴重だった千代紙を松井社長から頂いたこともある。

有朋43期生インタビュー

12. 1年生(有朋45期)の日記

7月7日 朝、礼が終わって佐々木先生のお話がある。昨日の八木の修練道場に(疎開)荷物を持って、しかも雨、暑さとたたかいながら6里余りの道を歩いて行ったという事は、これより後、私達によい自信を与えたのだ。私達の組からは一人も落伍者は出なかった。これもみんなが一致して行ったたまものである。清掃が終わってから警報が発令した。今日は支那事変記念日だけれども、今ではそれも忘れがちな時局である。

13. 1年生も建物疎開に動員

1年生も動員して建物疎開作業を行う計画が軍から発表されると、教員らは12,3歳の生徒には危険であると反対した。しかし、軍関係者は軍刀で床をたたき「作戦遂行上幼少な生徒の出動は当然である」と決行を迫った。「幼少な学徒六千余りが祖国に殉じたことは慟哭の極み」と県庁の記録に残されている。

14. 第二総軍司令部暗号班

昭和20年7月の半ば、4年生の何人かが選ばれ、第二総軍司令部の暗号班に加わるため、二葉の里の師団司令部で暗号解読の訓練を受けた。8月7日の入隊式に備え、5日、6日は特別休暇であった。『原爆戦災誌』によると、女学院の生徒が暗号翻訳課に、比治山高女の生徒が暗号通信教育課に既に入隊していた。

『悠久のまこと 皆実有朋九十年史』

15. 広島航空の8月6日

広島航空には県立一中と、第一県女の生徒が動員されていた。広島航空に建物疎開の義勇隊の要請があり、8月6日一中3年生50名も土橋の建物疎開作業に出動していた。第一県女の生徒は、広島航空の田口社長の判断で工場で待機中、現場より要請があり次第出動することになっていた。290名の広島航空関係者は土橋で被爆。第一県女の生徒は、広島航空にたどり着いた瀕死の工員や一中の生徒の看護にあたった。

 『まだ生きている わが青春と原爆の記・ミニ広島航空(株)の記』

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